呉屋日記

勝連繁雄先生の一弟子・平良が、好きなことを好きなようにつづる日記

無題

今から十年以上前の、私が先生の教室に入門してから数か月も経っていない時期のある日のこと。
先生が私に、あるものを手渡してきた。
(先生が私に何かをくれたのはそのときが初めてだったと記憶しており、そのときのことをよく覚えている。)
そのとき先生が手渡してきたもの。それは、先生が寄稿し掲載されていた沖縄タイムス紙面の記事の切り抜きだった。
記事の内容は、その記事の掲載当時に県内の関係各所で話題になっていた、沖縄県教育委員会が県の教員採用試験の試験科目に琉舞と三線、空手の実技を取り入れると発表したことに対する先生の意見について、だった。
その記事の中で、先生は次のようなことを書いていた。
(この寄稿記事《2006年5月に沖縄タイムス紙面に掲載》の全文は先生著「琉球古典音楽の思想(2007年/沖縄タイムス社刊)」に掲載されているので、ここでは一部のみ転載します。)
「そんなさわり程度の歌三線ができたからといって、伝統文化の理解とからめて云々される種類のものではないだろう。
良い機会である。今さらと思うかもしれないが、『沖縄の伝統文化は素晴らしい』というその素晴らしさの内容を、純粋に素朴に問い合ってみよう。」

そして、その記事を自宅に持ち帰って読んでみた当時の私はというと、
その記事の内容を、あまりよく分からない、と思った。

「あまりよく分からないと思った」というのは、記事の内容そのもののことではない。
当時の私は、その記事を読んで、話の内容は分かった、とは思った。
けれども、その記事を読んでも、私には先生の言っている意味が本当には分からないな、分かっていないような気がするな、と思った。
そしてその当時の私には、その記事に対する自分自身の意見、というのが何も浮かんでこなかった。
そしてその、自分自身の意見が何も浮かばないことに対しても、ほとんど何とも思わなかった。

そして、あれから十数年。
今、思う。

あの記事を読んだ当時の私は、本当に何も分かっていなかったのだな、と。

 

あの記事を読んで自分自身の意見が浮かばないというのは、何もやってこなかったことに等しいと、今、あえて強く言いたい。(私には、先生の教室に入門する前から三線歴があったけれど。)

あの、一見簡潔に書かれた記事の内容に、いくらでも思わされることがあるじゃないか。

現状、危機感、周りや自分のこと。

そして、あの記事の本当の重要性の認識。

あの記事を読んで、自分自身の意見が何も浮かばないはずがない、本当ならば。

先生ほどによく知らないであろう私でも、今ならば、そのくらいは分かると思う。

そして、あの十数年前の時点ですでに先生があのようなことを文章にして主張していることに対する、おそれと焦り。

 

 けれども密かに、少し喜ぶ。

その先生の主張を、文字として表されたものからだけでなく直接に知る機会が、今、いくらでもあるということに。

 

この十数年の間、私は先生の弟子として、様々な先生の主張を目にしてきた。
「先生の主張は、何ということのないふとした瞬間に伝えられる。」
特別な場で、というわけではない。普段の稽古の何ということのないふとした瞬間に先生の主張は伝えられ、そしてその、ふとした瞬間に伝えられるからこそ、先生の主張は無数にある。そして先生の主張が「主張」なのかどうかということは、私たち次第でいくらでも変化する、ということなのだろう。
「先生の主張は、言葉でなくても伝わることがある。」
嬉しさ、疑問や不満、そのほかなどの先生の心。
私たちに伝えたいことと、伝えたいと意図せずとも自然と伝わってくるようなことはいくらでもあって、また、それらがどれだけあるのかということは、私たち次第でいくらでも変化する、ということなのだろう。
「先生の主張を分かった上で、どうしたいのかは、自分で考えなさい、ということだ。」
この十数年の間、先生の意見・主張に何度も触れるうちに強く感じるようになったのは、嬉しさと、焦りと、恐ろしさ。そして、それを自分自身がどうしよう、ということだ。
先生は、「どうしなさい」とは決して言わない。
けれど、先生の主張を目にすると、何か少しでも、できることはないかと考えてしまう。

けれども、恐ろしくなってくる。
焦りが増してくる。
活かせるだろうか?
いや、活かさなければいけない、と思うから、だろうか。
そしてそれからどうするのかということもまた、私たち次第だということなのだろう。

さあ、私に何ができるのか。

 

この間の木曜日(14日)の沖縄タイムス紙面に、先生の寄稿がまた掲載されていた。
「琉楽思想の深化」のことについて触れられたその内容について、記事を目にした直後に先生と直接電話で話す。
「あの内容、分かる人はどのくらいいるのかな」
「私たちなら、先生の話をすぐ理解できると思うけどね」
可笑しい。偉そうに。私も本当にはまだ分かっていないかもしれないくせに、と思う。
けれども、あれから十数年が経ったのだ。
やっとスタートラインに立った、と思いたい。

先生の言わんとすることはいくらでもあるということ。

そして、先生が言わんとすることがどれだけ大事なものなのかということを、とても少しだけだけれども、理解できるといえるようになった、と、私もほんの少しは主張してみたい。

そしてそれだけでもまずはよし、としようか。

するまいか。

 

うむむ。

さあ、これからどうしよう。