呉屋日記

勝連繁雄先生の一弟子・平良が、好きなことを好きなようにつづる日記

「琉歌を作る②」

となったとき、気づいた。

そうだ。アイディアを先走らせる前に、まずは私が(私でも)即座に思いつく歌詞・言い回し(=古典音楽や民謡によく出てくる歌詞をヒントに思いついていると思われる)が、他の歌ではどのように歌われているのか、改めて調べることが先でしょう、と。

意図とずれた言葉を使ってしまわないように。また、すでに存在している歌と似たような歌を作ることは避けたい(内容が似ているのなら、わざわざ歌詞を私が作ったと言って出す意味はないと思った)ため、まずは桜について詠まれた歌から探し、調べてみるか、と考えた。

そこで、分厚い「琉歌集」(島袋盛敏著/1969年 風土記社)をめくる。

すると、発見。

昔に作られ、今も残っている琉歌に歌われている「桜」(「桜花」とも表現される桜)は、だいたいが川に流されている。(流されている、というか、流れている。笑)

「流れゆる水に 桜花うけて 色きよらさあてど すくて見ちやる/よしや詠」

(歌意→山川の水に浮いて流れる桜の花が、あまりに美しかったので、すくい上げて見た。)

という歌をはじめ、

「でかやうおしつれて 春の山川に 散りうかぶ桜 すくて遊ば/久志親雲上詠」(歌意→いざともに出かけて、春の山川に散りうかぶ桜をすくうて遊ぼう。)、

そういえば先月の公演で地謡を担当した舞踊「貫花」の曲の歌詞も、「白瀬早川に 流れゆる桜 すくて思里に 貫きやいはけら」(歌意→白瀬川に流れる桜をすくうてわが恋人(男)の首に花輪を作ってかけてあげたい)だったりと、川に流れる桜の花の美しさについて詠んだ歌は多い。(以前から「流れる川と桜を描写した歌が多いな」とは思っていたけれども、ここまで多いとは思っていなかった。)

一応、「桜」(「花を含めた木全体」のことと思われる)について表現した歌もあることにはあるが(例:「にほひ咲く梅に 桜花よりも あかぬ眺めゆる 松のときは/神村親方詠」。歌意→匂のよい梅や色の美しい桜花よりも、あかないでいつまでも眺められるものはときわの松である。)、数少ない例なのか何なのか、この歌のような「流れていない」桜は琉歌の中で、必ずしも褒められているとはいえない場合もあるようで、花びらが川に流れる描写のほうがより頻繁に「より良い」桜の姿として表現されているようだ。なぜだろう。

桜の花が咲き誇る様子よりも、散った花が川に流れる情景のほうがより美しいと、昔のウチナーンチュは考えていたのだろうか。

確かに「流れゆる桜」の表現は良いと思うけど・・・。

少なくとも私は、流れる花びらよりも、今まさに木の上で咲いている桜の花のほうについて伝えたい、と思うと思うけどな。(←「散った桜の花が川に流れている様子」が、私のこれまでの人生の中で、目にする機会自体ほぼなかったせいとも思われる。)

ああ、というより昔(琉球時代)は、桜はすべて、ほぼ川沿いに生えていたということ?

というか桜って、いつから沖縄(琉球)にあるの?もともと自生していた?いなかった?

今まで特に気にしたことがなかったけれど、今も毎年やってる「本部町・八重岳の桜祭り」の桜って、山に植樹した桜、ってこと・・だよね?自生していたもの、ではなく。

考えたら、うちの実家にもそこらにも、桜の木は結構あるし。桜の植樹と成長って、実は私が思っているより簡単・・・なの?

どうなんだろう・・・。

 

桜のことを、まずはもっと知るべきのような。

知った結果が、どういう桜の状態を歌で表現するのがいいのかを考えるヒントになるかもしれない、と思った。

(そこでまわりの先輩方数人に沖縄の桜について質問してみたのだけれど、その答えについては、長くなるのでここでは割愛しますね。)

 

 

(つづく→)