呉屋日記

勝連繁雄先生の一弟子・平良が、好きなことを好きなようにつづる日記

「琉歌を作る④」

桜に限らず、花について「匂ひましゆる(匂いが増す)」「しほらさ(きれい)」と表現するのはよくある。

でもできるなら、桜の花の咲く様子を、私自身のオリジナルの表現(少なくとも「琉歌集」などの昔からある歌にはない表現)にしたい。自分の気持ちにぴったり沿う表現を、うまくできたらいい。

でも、オリジナルの表現を入れるなら、上句(または下句)だけの一部分にとどめておかないと。

耳慣れない、奇抜な表現を詰め込みすぎてしまうと、聴いた人に「なんじゃこりゃ?(琉歌の体(てい)をなしていないのでは?)」と思われるかもしれない。

自分の気持ちを入れつつ、でも、歌の歌詞として聴きやすく、分かりやすくすることも必要だと思う。

あとは、背伸びした言葉遣いはだめだ。

「この歌、変じゃないですか?」と誰かに確認しなきゃならないような歌ではだめだ。

今の私が、自信を持って言える言葉だけを使って、歌を詠むべきだ。

 

数年前、先生の前で、即興&ギャグで作った先生を称える旨の琉歌を披露したことがある。(詳細は覚えていないが、「○○○もして~、○○○もできて~、」のような、内容が「あれもこれもできる素敵な私の先生」みたいなもの)。そのときのこと。

8、8、8音を読み、最後の6音「ワンヌ シンシー(私の先生)」と私が言った瞬間、2人一緒に爆笑した。

先生から「『ワンヌシンシー』なんて、君が言うにはまだ早いでしょ」と言われ笑われた。

わかるよ、だからウケるんじゃん、この歌。私が披露するからこそ笑えるやつ。と思ったことが、今、浮かぶ。

歌われる言葉が、私自身から離れすぎた言葉になっては可笑しいのだ。

どの歌も同じだ。

 

そうやって試行錯誤を繰り返し、一週間きっかりで完成した歌が、以下です。

 

 

「桜花笑て 石平の小路 春風もともに うたう嬉しや」

 

歌意:笑ったような表情で桜が咲く石平の小路で、春風も一緒になって歌うことの嬉しさよ。

 

 

以上、今回の場合の、私の琉歌の作り方でした。

(ちなみに先日、とっても良い天気の中、まつりでの斉唱は無事に終わりました。

私のオリジナル歌詞に付き合ってくれたメンバーの皆さん、どうもありがとうございました。)

 

「琉歌を作る③」

今回作る歌に私が込めたい気持ちは、いくつかある。

その前にまず言えるのは、私は、石平地区の人間ではない、ということ。

石平に住んでいる人々がどのような人なのかを本当に知っているのは、そこにずっと住んでいる人だけだし、知らない私が知った気になって何かを語ることはできない。

私に斉唱の話を持ってきた先輩が詠んだ琉歌の最後の6音は「思い深さ」で締めくくられている。

その歌には、歌詞だけでは表現できない、言葉の奥の「思い」が浮かぶ。

仮に私が「思い深さ」と歌を詠んだとしても、それは「知らない」人間が詠んだ、聞き手に何も響くものがないからっぽの歌ということになるだろう。

けれど、外のほうから石平地区を見た私だからこそ言えることもあるだろうし、そのことについて詠みたい。

知らない私だからこそ言える、地域を訪れる際の新鮮な気持ち。

私にとっての、石平出身の先輩、後輩、仲間のこと。

今回のまつりはもともと、石平地区の先輩が、地域を盛り上げようと始めたものだ。

桜の花は、他の地域でもどこでも見られる。

けれど、その桜の花の咲く木を植え、まつりを行う理由に、先輩の思いがある。

まつりで賑わった様子。

桜をきっかけにたくさん人が集まって、楽しく語り合う様子。

桜はどう?まつりがある頃には、どんな様子?どう咲くの?

「春」?「花」?「友小達」?

「揃て」?「語る」?

気持ちに添う言葉を列挙してみた上で、上句と下句全部通してひとつのことを表現するのか、上句と下句を分離させた内容にするのか、それとも、と考え、言葉を選び、また消して、を繰り返す。

 

「石平」という単語を入れず、歌全体で石平のことを表現する方法もある。(そのほうが、限られた文字数の中での表現の幅も広がるかもしれない。)

でも、せっかく石平のための歌なんだし、今回作る歌を(自分の中での)まつりの記念にしたいという気持ちもあるから、そこはやっぱり歌詞として、入れたほうがいいかな。

 

 

(つづく→)

「琉歌を作る②」

となったとき、気づいた。

そうだ。アイディアを先走らせる前に、まずは私が(私でも)即座に思いつく歌詞・言い回し(=古典音楽や民謡によく出てくる歌詞をヒントに思いついていると思われる)が、他の歌ではどのように歌われているのか、改めて調べることが先でしょう、と。

意図とずれた言葉を使ってしまわないように。また、すでに存在している歌と似たような歌を作ることは避けたい(内容が似ているのなら、わざわざ歌詞を私が作ったと言って出す意味はないと思った)ため、まずは桜について詠まれた歌から探し、調べてみるか、と考えた。

そこで、分厚い「琉歌集」(島袋盛敏著/1969年 風土記社)をめくる。

すると、発見。

昔に作られ、今も残っている琉歌に歌われている「桜」(「桜花」とも表現される桜)は、だいたいが川に流されている。(流されている、というか、流れている。笑)

「流れゆる水に 桜花うけて 色きよらさあてど すくて見ちやる/よしや詠」

(歌意→山川の水に浮いて流れる桜の花が、あまりに美しかったので、すくい上げて見た。)

という歌をはじめ、

「でかやうおしつれて 春の山川に 散りうかぶ桜 すくて遊ば/久志親雲上詠」(歌意→いざともに出かけて、春の山川に散りうかぶ桜をすくうて遊ぼう。)、

そういえば先月の公演で地謡を担当した舞踊「貫花」の曲の歌詞も、「白瀬早川に 流れゆる桜 すくて思里に 貫きやいはけら」(歌意→白瀬川に流れる桜をすくうてわが恋人(男)の首に花輪を作ってかけてあげたい)だったりと、川に流れる桜の花の美しさについて詠んだ歌は多い。(以前から「流れる川と桜を描写した歌が多いな」とは思っていたけれども、ここまで多いとは思っていなかった。)

一応、「桜」(「花を含めた木全体」のことと思われる)について表現した歌もあることにはあるが(例:「にほひ咲く梅に 桜花よりも あかぬ眺めゆる 松のときは/神村親方詠」。歌意→匂のよい梅や色の美しい桜花よりも、あかないでいつまでも眺められるものはときわの松である。)、数少ない例なのか何なのか、この歌のような「流れていない」桜は琉歌の中で、必ずしも褒められているとはいえない場合もあるようで、花びらが川に流れる描写のほうがより頻繁に「より良い」桜の姿として表現されているようだ。なぜだろう。

桜の花が咲き誇る様子よりも、散った花が川に流れる情景のほうがより美しいと、昔のウチナーンチュは考えていたのだろうか。

確かに「流れゆる桜」の表現は良いと思うけど・・・。

少なくとも私は、流れる花びらよりも、今まさに木の上で咲いている桜の花のほうについて伝えたい、と思うと思うけどな。(←「散った桜の花が川に流れている様子」が、私のこれまでの人生の中で、目にする機会自体ほぼなかったせいとも思われる。)

ああ、というより昔(琉球時代)は、桜はすべて、ほぼ川沿いに生えていたということ?

というか桜って、いつから沖縄(琉球)にあるの?もともと自生していた?いなかった?

今まで特に気にしたことがなかったけれど、今も毎年やってる「本部町・八重岳の桜祭り」の桜って、山に植樹した桜、ってこと・・だよね?自生していたもの、ではなく。

考えたら、うちの実家にもそこらにも、桜の木は結構あるし。桜の植樹と成長って、実は私が思っているより簡単・・・なの?

どうなんだろう・・・。

 

桜のことを、まずはもっと知るべきのような。

知った結果が、どういう桜の状態を歌で表現するのがいいのかを考えるヒントになるかもしれない、と思った。

(そこでまわりの先輩方数人に沖縄の桜について質問してみたのだけれど、その答えについては、長くなるのでここでは割愛しますね。)

 

 

(つづく→)

「琉歌を作る①」

今月、普段お世話になっている先輩からの依頼により、とある祭りの幕開け斉唱をすることになった。

北中城村の石平(いしんだ)という地域の、川沿いに植えられている桜の咲く時期に合わせて開催する「桜小路(さくらこみち)まつり」。始まってから、今年で10回目を迎えるという。

例年幕開けを担当している地域の古典研究所の先生が、今年は別の予定があってまつりに参加できないらしく、私たちに話が回ってきた次第。

幕開け斉唱のメンバーは、私を含めて4名予定(私の研究所のメンバー計3名プラス胡弓担当の仲間1名)。

斉唱3曲のうち1曲目は「かぎやで風節」で、それ以外の2曲をどの曲にするかは、私たちが決めて良い。

そしてできれば「かぎやで風節」は、その先輩自身が地元・石平のことを詠んだ歌の歌詞に変えて歌ってくれないかということだったので、了承。

そこで2、3曲目を何にするか、検討。

2曲目は斉唱でよくやる「恩納節」にして、3曲目は「ごえん節」がいいか。

でも、「恩納」節かー、せっかく「石平」という地域限定のまつりなのに、ピンポイント、恩納村のことを歌った歌詞でやるのは少しもったいないから(そうしても別に全く問題ないのだけど)、パロディ的に、歌詞の一部「恩納」を「石平」に変える?

でも、「恩納」を「石平」に変えたとて、続く「松下」なんて石平にはない(むしろ「松」じゃなくて「桜」なんだけど、みたいになる)けどどうすんの、と考えたとき、思いついた。

「歌詞、もう全部自分で作ったほうがよくないか?」と。

そこで先輩に、「恩納節」の歌詞(=琉歌)を今回のまつりのために私が作ります。一週間で作れなかったら断念するけどどうですか?と聞き、OKをもらったため、作成スタート。

 

※ここで参考・・・

「恩納節」

恩納松下に 禁止の牌のたちゅす 恋忍ぶ迄の 禁止やないさめ

歌意:恩納村の松下に禁止事項を書いた立札があるが、恋愛することまで禁止しているわけではないだろう。

(「改訂 歌三線の世界」勝連繁雄著/2003年 ゆい出版 より)

 

 

「桜まつり」なので、「桜」を歌詞に登場させるのは必須か。

そして「桜」を思い浮かべる際、まず目に入ってくるのが花の色、ということだからなのだろうか。歌作りをスタートしたとき、ぱっと頭に浮かんだのは、最初の8音に「サクラ(桜)イル(色)ヂュラサ(きよらさ)」(直訳→「桜の色がきれい」)というのはどうか?ということだった。

だがすぐに、「イルヂュラサ」との言い回しが出てくる別の、たとえば「いちゅび小節」で、歌詞「月ん照り美らしゃ 無蔵も色美らしゃ~」(ツィチンティリヂュラサ(シャ) ンゾンイルヂュラサ(シャ)~ 歌意→月が照ってきれいだ。彼女もきれいで色気がある)となっていることから考えると、「サクライルヂュラサ」という表現は、純粋に「桜の色がきれい」ではなく「色気のある桜」という風に解釈される可能性も出てきてしまう。

となると、私が歌に込めたい意図とは合わなくなるので、却下。

 

(つづく→)

2022年の出来事(4)

先生と、面と向かって話したこと。

一番印象に残っている場面は?と、聞かれても分からない。

先生はいつ、私を何と呼んでいただろう。

(「君」?「お前」?「ゆかり」?・・・・全部だな。)

 

 

先生を思い出す時、行きたくなる場所がある。

本島南部の、とある海沿い。

夜中、しーんと静まり返った中で、真っ暗な、海をのぞむ道路を車で走る。

片道一車線の、ところどころのカーブを抜けていくうちに、比較的ゆるやかな、少し幅の広い道に出る。

一点の、岬を見上げられる場所に辿り着く。

 

通過しながら思い浮かべる。

真っ暗な夜空。その岬の端のほうか。

遠くの、ぽつり、小さな灯を眺める私。

横に、先生。

先生は、三線を弾き、歌い、ときどき休み。

目線をまっすぐ前にそのまま。

あたたかく、いつものように、ふっと、つぶやく。

「明るいねぇ」

 

実際に、先生と一緒にその場所に行ったことは一度もない。

私はいつも一人車に乗り、その場所を見上げられるところから、ちらりとそこを通りすぎるだけ。

けれどもそこを通るたびに、先生とふたり並んだ風景が浮かぶ。

同じことを、先生が今この瞬間に、思っているかのような感覚になる。

幾度となく聞いた覚えの声がする。

「弾いてみるか、由佳梨」。

 

 

私がこれから生きていくということは、そういうことだと思う。

 

 

大切な仲間、人々に囲まれて、日々は続く。

刻々と、いつの間に過ぎる年月を重ねる中で力になるのは、

ふと立ち止まり、思い浮かべ、記憶に刻む日々。

書くことで、強固になる思い。

いつまで続くか分からない道のり。

 

先生の声が聞こえる。

語る。応える。

私はどれだけ、善い行いをしたというのかな。

先生と出会えたこの喜びは、どうして手に入ったんだろう。

 

生きる。感じる。

悲しめることも幸せ。

包み、守られる。

誰にも消せない、私がいる限り。

 

いつもいる。見える。

伝える。伝わる。

他も、ひとつに、つながっている。

 

表現を、やめたくない。

 

2022年の出来事(3)

組踊の稽古が始まった。

9月に初めて、組踊の舞台の地謡をすることになった。

先生は組踊のことをよく知っているのに、私は一度も組踊をやったことがない。

演目が「執心鐘入」と聞いて、初心者の私にでも入りやすく、良い機会をもらったと感謝した。

 

ありがたい、と引き受けたところ、稽古をはじめるとすぐにたくさんの疑問が湧いた。

どうしてこの歌詞なのか。解釈は?

歌い方はこれでいい?駄目?

先生がいればすぐに答えが分かるのに、と何度も思った。

けど、言っても始まらない。調べ、他の先生方にも教えてもらいながら、とにかく稽古することにした。

 

そういえば、と、私が自分の研究所を開設したそもそもの理由を思い出した。

私が研究所を始めた理由の一つが「教えることで、分からないことを明確にしたい」というものだった。

習っているだけでは気づかない、教える立場になってはじめて知る、自分の弱点やあやふやな部分を見つけ、先生に聞けるうちに聞いておくべきだと考えたから。

教え、壁にぶち当たったときの先生の対処法のようなものも学べたら、と思ったからだった。

けれど組踊に関して私は、教えるどころか挑戦することさえ初めてで、

先生がいた頃は「私もいつかは組踊を」と、なんとなく思うだけだった。

「いつかは」のその日が、今になって来た。

遅いか早いか。どちらにしても、挑戦できたこと自体に意義があると思いたい。

 

舞台本番の日。

結果、一応無事にこなすことができた。

そして、この舞台でひとつ印象深かったことは、

今年になって初めて、一緒に地謡を務めた仲間と明るくおしゃべりができるようになっていた、ということだ。

1月の独唱の舞台の時は、ただ出番をこなしただけ。暗く悲しい気持ちが大きかった。

あのときの舞台での出来事、共演者と話した記憶もあまりない。

けれど今回は違った。

稽古する気持ちも湧いた。

舞台のあとの達成感もあった。

毎週の研究所の稽古があるおかげかと思う。毎週会って、先生がいた頃の雰囲気を感じるようになったから。

そして、先生も知っている、明るく話せる三線仲間は、研究所の中にも外にも何人もいるのだと、今回改めて思い知らされた。

 

ありがたいことが多い。

そんな風に、日々を過ごしている。

2022年の出来事(2)

3月に、自分の研究所の稽古を再開した。

コロナ禍の影響で、気づけば稽古の休止期間は1年半以上になっていたが、再開のきっかけがつかめなかった。

状況が変わったのは、兄弟弟子である先生の研究所時代の仲間が二人、うちに来ることが決まったからだった。

ひとりは、兄弟弟子、兼、友人。

もうひとりは、先生が指導をしていた三線サークルの活動をきっかけに先生の弟子になったUさん。

 

稽古再開の直前の2月に、その兄弟弟子の二人と話し合いをすることにした。

三人一緒に顔を合わせること自体がずいぶん久しぶりだったその場で

先生について思い出す事をお互い話し合ったことが、今も忘れられない。

「他の先生方の歌声を聴いても、先生の息遣いとは、違うなあ、と」

黙って聞いていたもう一人が、泣いていた。

改めて、そしてはじめて、稽古をしたい、しなければと思った。

 

(ああ、稽古を再開したのはつい最近だと思っていたのに、気づけばもう一年以上が経つ。先生が不在になってから、長いような、短いような。)

現在も継続中の毎週の稽古は、前からいるメンバーと、新しい仲間と一緒。

稽古時にはほぼ毎回、先生の話が出る。

「ここに来るとき、車の中で先生の『本調子述懐節』を聴いてきたので、今日はそれの練習をお願いします」

工工四ではこうなってるけど、先生の歌はこうだったよね」

「あれ?今三線弾いてた途中、ちょっと変なとこあったよ」

「あとでもっかい、先生の歌聴いて確認してみよう」

 

重ねるごとに、元気が出る。

ありがたくて、心強い。

教えたいのではない。共有したいだけだ。

先生が教えたことを、忘れないよう、繰り返し、続けていきたいだけだ。

 

弾く。歌う。

話し合い、笑う。

先生がいた頃の?

雰囲気がよみがえるような?

少しは似てる?

・・・・いや、いつか、似るといい。

 

違うのは分かる。けれども、

今はまだこれで、いいのではないかな。

そう、ここは、先生もいる教室。

 

同じように、みんなも思っているかな。