呉屋日記

勝連繁雄先生の一弟子・平良が、好きなことを好きなようにつづる日記

「琉歌を作る③」

今回作る歌に私が込めたい気持ちは、いくつかある。

その前にまず言えるのは、私は、石平地区の人間ではない、ということ。

石平に住んでいる人々がどのような人なのかを本当に知っているのは、そこにずっと住んでいる人だけだし、知らない私が知った気になって何かを語ることはできない。

私に斉唱の話を持ってきた先輩が詠んだ琉歌の最後の6音は「思い深さ」で締めくくられている。

その歌には、歌詞だけでは表現できない、言葉の奥の「思い」が浮かぶ。

仮に私が「思い深さ」と歌を詠んだとしても、それは「知らない」人間が詠んだ、聞き手に何も響くものがないからっぽの歌ということになるだろう。

けれど、外のほうから石平地区を見た私だからこそ言えることもあるだろうし、そのことについて詠みたい。

知らない私だからこそ言える、地域を訪れる際の新鮮な気持ち。

私にとっての、石平出身の先輩、後輩、仲間のこと。

今回のまつりはもともと、石平地区の先輩が、地域を盛り上げようと始めたものだ。

桜の花は、他の地域でもどこでも見られる。

けれど、その桜の花の咲く木を植え、まつりを行う理由に、先輩の思いがある。

まつりで賑わった様子。

桜をきっかけにたくさん人が集まって、楽しく語り合う様子。

桜はどう?まつりがある頃には、どんな様子?どう咲くの?

「春」?「花」?「友小達」?

「揃て」?「語る」?

気持ちに添う言葉を列挙してみた上で、上句と下句全部通してひとつのことを表現するのか、上句と下句を分離させた内容にするのか、それとも、と考え、言葉を選び、また消して、を繰り返す。

 

「石平」という単語を入れず、歌全体で石平のことを表現する方法もある。(そのほうが、限られた文字数の中での表現の幅も広がるかもしれない。)

でも、せっかく石平のための歌なんだし、今回作る歌を(自分の中での)まつりの記念にしたいという気持ちもあるから、そこはやっぱり歌詞として、入れたほうがいいかな。

 

 

(つづく→)