呉屋日記

勝連繁雄先生の一弟子・平良が、好きなことを好きなようにつづる日記

2022年の出来事(1)

1月に、舞台があった。

独唱「赤田風節」の出番を与えられた。

コロナ禍の影響で数多くの舞台が中止になる中、本当に久しぶりの舞台。

そして先生が不在になって以来、はじめての舞台だった。

出番があることは、先生が健在だった頃に知らされた。入院中だった先生が電話で教えてくれた。

私と先生、二人共が知っている舞台なのだから、やり遂げるべきだと考えるようにした。

 

長い間練習をする気が起こらず、コロナ禍で舞台自体が中止になるかもしれないとも思っていたが、本番の何か月前からだったか、一人で練習をはじめた。

手軽に聴ける先生の歌が入ったCDは、私の歌とは調弦が違う。

CDを流し、拍子を合わせることだけに集中し、一緒に弾き歌う。

 

自分の研究所の稽古は休止中で、三線仲間に簡単に会えなかった。

しょうがなくというか、うちの旦那に、先生のCDと私の歌を両方聴かせてみた。

「違う。先生の歌は、ここのところがこうなっているけど、ゆかりの歌はそこ違っているよ」

ある個所について指摘された。

「やっぱり?自分でも思うんだけどさ・・・・」

 

「先生の歌さ、他の先生たちとは違う感じのところある」と、他の歌の具体例をあげて説明すると、旦那がこう返してきた。

「先生には、その表現がいいと思った理由があるんでしょ。その理由が何なのか、これからはもう、自分で考えてやっていくしかないさ」。

表現―。

先生の弟子になりたての頃はその言葉の意味があまり分からなかったな、と、10年以上前のことを少し、久しぶりに思い出した。

 

 

迎えた舞台本番の日。

独唱は、満足のいく出来にはならなかった。

先生がいた頃のような仕上がりにはならなかった。

気持ち、力、色んなことが、あの頃とは違いすぎた。

けれど、今回の自分の役目を終えられただけでも良しとする、しかない。

甘いかもしれないけれど、

この程度の劣化で済んで良かったとするか、どうか。

やれただけ良かったではないか、と、考えるか、どうか。

 

しょうがないよな、と、先生は言うかな。

 

 

(3)

こんな師匠によく会えたな、と思う。

 

偉いのに、えらぶることなく、

本当に何でも話せた。

 自分自身に起こる日々の出来事は全部、先生と話すきっかけになった。

とにかく、話したかった。

先生と昨年一度、あの琉歌のコーナーの話をしていて、

「コロナは嫌だけど、コロナで稽古がなくなった分、先生といろんな話ができて楽しいな、っていう内容の作品私が作ってみるのは?」と言ってみた。

先生は「バーカ」と笑っていた。

  

 

そういえばあれは、先生の弟子になってから、いつ頃のことだっただろう。

先生と話す方法は、声を出して語り合うことだけではないと気付いたのは。

三線の練習。

そして、書くこと。

だからこのブログを始めた。

2011年3月7日の、このブログの一番最初の回。

「私は、先生の歌が好きな、先生の一番弟子」って。

あれ最初に読んだ先生、きっと驚いたことだろう。

 

(えっ?僕の「一番弟子」?)って。

 

ああ書くのが、一番いいと思った。

ああ書いたら、気持ちがよく伝わると思った。

ああ、あれからもう10年か。 

 

長い間、こんなに長い間、先生と話せたじゃないか、学べたじゃないかという気持ちと、苦しい気持ちが、今、交互に生まれている。

一生涯、先生から学び続けたいと思いはじめた頃から常に、先生の体のことを気にしていた。先生が、全く元気そうであっても常に、だ。

それを考えると、こんなに長く同じ日々を過ごせたことは、幸せじゃないか、と。何度も何度も自分に言い聞かせる。

でも、苦しい。

話したことや、学んだことが、あまりにも多すぎた。

何を見ても、先生のことばかりが思い出される。気持ちの中に、いつも先生がいて。

 

何かにくよくよ悩んでいるとき、先生が言った。

「人の生き死にに関わること以外は、みんな大したことないんだよ」

 

言われるたびに、やめてよ先生、って思った。

せっかく私、先生作の詩を読んで「死んでも終わりじゃない」って思っていたのに、と。 

でも、先生の言う通りだ。

苦しい。

(2)

7月13日のすぐ前の週にも、先生と会いました。

私が書いた琉歌の原稿を、最初に先生の自宅で見せた時のことです。

原稿を見せた後、二人でごはんを食べている途中、私は、言いました。

 

「でもさ、琉歌のあの総評さ、私が書いてます、って名前出せるんだったら、もっと書けるのになー」

 

それを聞いた先生が、ムッとしました。

そして私は、そのとき先生が何を思ったかということ、そして、先生勘違いしてるんだなあっていうことが、すぐに分かりました。

だから笑って言いました。

「違う。何で私がそう言ってるか、教える?」

「・・・・・・」

「うちなんかの、れいちゃんいるでしょ?」

私は、5歳の次女の名前を出しました。

「れいちゃんさ、よく、言うことに修飾語みたいなのがついてるわけ。

おにぎり食べたときは『ママ―、このおにぎり、おいしーい!れいちゃん、このおにぎり、あと1000こ、たべられるくらいおいしーい』って言ったりとか。

タコライス食べたときは『ママ―、これ、からいー。もうれいちゃん、このイスのせもたれがなかったら、うしろにひっくりかえっているくらい、からいよー』って言ったりとか。

そんなだわけ。

でさ、この前、七夕があったさ?でさ、れいちゃんの幼稚園にも、七夕の笹の葉に、子どもたちが自分のお願い事書いた短冊が飾られてたから、れいちゃんが書いたのどこかなーって、探したわけ。

そしたらさ、れいちゃんが書いたやつ、見つかってからにさ。

でさ、それにさ、『つよくなれますように』ってだけ、書いてたわけ。

でさ、私、最初『鬼滅の刃』の影響かなーって思ったんだけど、れいちゃんに、『つよくなれますように』って何ねー?って、聞いたわけさ。

そしたられいちゃんがさ・・・・。

 

「ほんとうは、『じゃんけんがつよくなれますように』ってかきたかったんだけど、『じゃんけんが』は入らなかったから、『つよくなれますように』ってだけかいた」って言いよったわけ。

 私、これ、ちょっとすごいなーって思ってからにさ。

 

本人は何も考えないで『じゃんけんがー』のとこ入らないと思ってカットしただけだったかもしれんけどさ、

『じゃんけんがー』は、入れないほうが、いいさ?

『じゃんけんがつよくなれますように』って全部書いたら、子どもらしいなー、かわいいなーって、それはそれでいいかもしれないけど、

『つよくなれますように』だけにしたら、いろんな想像がふくらむさ?

何が『つよくなれますように』なの?とか。なんで?とか。普段から、背伸びしたがりの子なのかな?とか。

 

でさ、私、琉歌も同じことでしょ、って思うわけ。

余計なとこなくして、 読む人の想像がふくらむっていう。

 

でもさ、先生の名前出して書くとしたら、こんなこと書けないさ?

だから、そういう意味で、私の名前出して書いたら、こんな内容、書けるのになー、って」

 

 

この話を聞いていたときの先生は、「つよくなれますように」の最初のくだりのところで、もう、すでに笑っていた。

 その後のつづきの部分を聞く前から笑っていた。

 

(1)

7月13日に、先生と会いました。

先生の自宅に行きました。

先生が連載していた、沖縄タイムスの琉歌のコーナーの原稿の内容について相談するためにです。

その日が原稿の提出の締め切り日でした。

私が入ったあとに、先生が部屋に入って来ました。先生のパソコンが、二階の部屋から、一階の稽古場に移されていました。

 

 

「じゃあ、ここのところは、『今回の総評は、私にお願いしました』でいいの?」

「・・・・『お願いした』、だな」

「わかった。できたよ」

「じゃあはじめから読んでごらん」

「『秀作、該当なし。今回投稿された作品のうち・・・・お願いした』」。

「・・・ここに、お前の名前を出すのは、どうしようかな・・・」

「うーん、どんなかなー」

「本当は、お前が今ここに、名前を出して書ける立場じゃないんだよな」

「そうだねー・・・・」

「ここにお前の名前出したら、お前の将来の独立性が、阻まれるんじゃないかな、っていう部分もあるんだよな」

「うーん、そうかなー・・・・。それでもいいけど・・・どんなしよう・・・」

 

 

前もって先生から、琉歌の投稿作品書類のコピーを手渡されて、「先入観なしに、まずはお前の感じたことを書いてごらん」って言われて書いたものを先生が読んで、「僕と同じ見解ですね」って言うから、それを載せようという話にはなっていた。

でも、先生が書いた体(てい)で書いてあった文章を、私が書いたって、名前まで出すっていうことは、締め切り当日に決まった。

あのコーナーの文章を読んだ方、えらそうな書き方ですみませんでした。

「お前、何様か」って思った方もいたかもしれませんけど、そういうわけでした。

あれでも直前に直しました。直す前は、もっと上から目線の文体だったので。 

 

 

先生はあの日、琉歌の原稿の話のあと、タイムスから「リハビリ体験記」の原稿を頼まれているって話をして、私は、ああ、だから先生、急に私の名前をこの琉歌のコーナーに出すことにしたのかな、と思いました。

先生がリハビリのために入院してたんだったら、この原稿、当たり前、書けなかったよね。

だから弟子に頼んだんだ。って、読んだ人思うから。

そして次回からはまた、この琉歌のコーナー、先生復活しました、みたいになるんだろうな、と。

 

無題

今、書けない。書くべきじゃない。書きたくもない。

もっと時間を置けば正直、もう少しは、書けるのに。

そう思っていたのに、それでも今日書いたのは、はっきり「誰」とは断定できないある人から、この場を通して私への気遣いのメッセージのようなものがあったからです。

その人にも簡単に想像がつくんでしょうね。私が今、どんな状態なのかっていうのが。

 

ご想像の通り、泣いてますよ。涙が止まりません。

そんな言い方しかできません。別の言葉が見つかりません。

これから時間をかけて、ここにまた書きますので、見て下さい。

直接会って、面と向かうと言えないので、見て下さい。

 

気遣ってくれて、ありがとうございます。

また、書きます。

「青い車」(3)

新聞紙面に彼の名前を見つけたとき、私には、二つの気持ちが起こったと思う。
懐かしむ気持ちと、納得の気持ちだ。

紙面に載った彼の名前と顔写真を見て、それまであまり意識的には思い出すことのなかった中学・高校時代の彼のことが思い出された。

そして、同時に納得した。

真面目にコツコツ頑張った人間が、結局最後、勝つんだろうな、と。

私との交流が途絶えたあとの彼が、大学時代そしてその後と、目標に向かって絶えず努力を重ねていたのであろうということは、実際にその姿を目にしていなくとも簡単に想像がついたし、さらなる目標に向かって着実にキャリアを積み上げ続けている途中であろうと思われる彼に対して、知らなくとも、そういう未来が随分前から見えていたかのように、

彼の現在の姿を知った瞬間の私には、驚きのような感情はあまり湧かなかった。

 

とこう書くと、空白の数年間を自分自身で勝手に埋めた、理想的な彼の人生物語のようなものを私がこの場で一番主張したいように捉えられてしまうのだろうか。

けれども、私がこの場で最も言いたいのは、そういうことではない。

私があの彼の貸してくれたCDを聴き、時おり彼をなんとなく思い出しながら青い車を選んで乗っていることと、今の現実の彼の姿とには何の関係もない。

私は別に、現在の彼があの学生時代からの目標を叶えつつあろうとも、仮に全く別の仕事に就いていようとも、正直言ってどちらでも良いのだ。

ただ単純に、心地良かった、彼が普通に私と共通の空間にいたあの頃。

そしてあの頃を「なんとなく」「思い出す」ということそのものや、あの当時はほとんど意識していなかった心地よいという感覚のきっかけとなった彼が今も元気で過ごしているのだろうと思い浮かべること。そのこと自体のほうが私にとっては重要なのだから。(現在の彼がもしもこのことを知ったら、彼自身はこのことを不本意に思うのだろうか。)

そういえば昔、大学生の頃、将来私は自分自身の目指す仕事に就けるのだろうかと気になっていた時期に、当時のバイト先の年上の先輩が、「でも君の親は、この先君がどんな仕事に就いたって、何をしていたって、君が普通に幸せな生活を送っていれば、それだけで一番嬉しいものなんだよ」というようなことを言っていたことがあって、その話を聞いた当時の私は「そんなことあるのかなあ」と考えたりしていたものだが、今ならその言葉に納得する。

肉親ほど近い間柄とは全く言えないが、あの先輩が言っていたことと少しだけ近いような感情が、彼に対して起こった、ということでもあるのかな。

 

「君の青い車で海へ行こう
 おいてきた何かを見に行こう」


今改めて聴いてみても、あのスピッツの「青い車」の曲の軽快なテンポと、歌詞が描く物語と、そして私とKくんのあの当時の関係性とには、直接的な類似点や関連性はない。
彼と車でドライブしたことも、ましてや海まで出かけたこともないし、そういうことをしたいと希望した記憶も多分ない。
けれどもただ、あの曲が今も車のカーステレオで流れるたびに、その歌詞の内容にわくわくして、うれしくて、その一曲だけを何度もリピート再生していたりする。
よかったねえ、私。

それにしても、なぜ彼はあのとき私にあの買ったばかりのCDを貸してくれたのだろう。

貸してもらったいきさつについては申し訳ない、全く記憶にないが、彼は私にあのCDを貸したことを今でも覚えているだろうか。

けれども、それも、どちらでもいい。

私の記憶の中にさえ、あればいいのだから。また、これからも間違いなく、変わらず私の記憶の中にあり続けるだろうから。

 

なくなろうが、かまわない。

手放しても、時がたっても、変わらない。

なんとなく「当たり前」だったあの頃のつづき。
記憶の中で、「青い車」は、いつまでも走り続ける。