呉屋日記

勝連繁雄先生の一弟子・平良が、好きなことを好きなようにつづる日記

(1)

7月13日に、先生と会いました。

先生の自宅に行きました。

先生が連載していた、沖縄タイムスの琉歌のコーナーの原稿の内容について相談するためにです。

その日が原稿の提出の締め切り日でした。

私が入ったあとに、先生が部屋に入って来ました。先生のパソコンが、二階の部屋から、一階の稽古場に移されていました。

 

 

「じゃあ、ここのところは、『今回の総評は、私にお願いしました』でいいの?」

「・・・・『お願いした』、だな」

「わかった。できたよ」

「じゃあはじめから読んでごらん」

「『秀作、該当なし。今回投稿された作品のうち・・・・お願いした』」。

「・・・ここに、お前の名前を出すのは、どうしようかな・・・」

「うーん、どんなかなー」

「本当は、お前が今ここに、名前を出して書ける立場じゃないんだよな」

「そうだねー・・・・」

「ここにお前の名前出したら、お前の将来の独立性が、阻まれるんじゃないかな、っていう部分もあるんだよな」

「うーん、そうかなー・・・・。それでもいいけど・・・どんなしよう・・・」

 

 

前もって先生から、琉歌の投稿作品書類のコピーを手渡されて、「先入観なしに、まずはお前の感じたことを書いてごらん」って言われて書いたものを先生が読んで、「僕と同じ見解ですね」って言うから、それを載せようという話にはなっていた。

でも、先生が書いた体(てい)で書いてあった文章を、私が書いたって、名前まで出すっていうことは、締め切り当日に決まった。

あのコーナーの文章を読んだ方、えらそうな書き方ですみませんでした。

「お前、何様か」って思った方もいたかもしれませんけど、そういうわけでした。

あれでも直前に直しました。直す前は、もっと上から目線の文体だったので。 

 

 

先生はあの日、琉歌の原稿の話のあと、タイムスから「リハビリ体験記」の原稿を頼まれているって話をして、私は、ああ、だから先生、急に私の名前をこの琉歌のコーナーに出すことにしたのかな、と思いました。

先生がリハビリのために入院してたんだったら、この原稿、当たり前、書けなかったよね。

だから弟子に頼んだんだ。って、読んだ人思うから。

そして次回からはまた、この琉歌のコーナー、先生復活しました、みたいになるんだろうな、と。