呉屋日記

勝連繁雄先生の一弟子・平良が、好きなことを好きなようにつづる日記

先生情報シリーズ(その5)

まずひとつ。これは桑江中校歌、栄口音頭どちらにも共通しているところだと思うんですが、「見えるものを見ることで、見えないものまでを見る」先生ならではの世界がいきている、という点がいいと思います。
どちらの曲でも現実と想像の混ざった世界が表現されているけれど、(特に想像の世界を表現している部分を読むと)それらの言葉を捉える人次第でいくらでもその世界が広がっていく。歌を通して想像の大切さを伝えている、というところが先生らしくていい。
ただ、面白いのは、
桑江中校歌は、どちらかというと「現実を見て想像をすること」の意味を強く知らしめるような歌詞になっているのに対して
栄口音頭は「想像を見て現実を知ること」の意味を示しているような歌詞になっているような気がすること。
流れが逆、だと思うんです。同じように想像の大切さを伝えているにしても、両曲を味わったときに生まれてくる感想の流れ、みたいなものが。
たとえば桑江中校歌のほう。この歌を通して先生が一番伝えたいのはたぶん、1〜3番にわたって3度繰り返されている「青春がある」「若者がいる」という部分だと思います。
中学生たちに、自分たち一人一人が青春真っ只中の未来への大きな可能性を秘めた若者であるということを自覚してほしいという先生の願いがこの歌詞には込められていると思うのだけど、(これら「青春」「若者」を「想像」と「現実」のうちのどちらだととらえるのかは人それぞれだとしても)、今いる自分とその周りを見つめることで、未来への可能性までをも想像して感じ取ってほしい、ということが、先生の最も言いたいことではないかと感じられます。つまりそこには「現実から想像へ向かう意義」が表れている。
一方、栄口音頭で一番先生が伝えたいと思っているのは、3番の部分(だと私は思います)。
3番全部、今となっては想像の中でしか見ることのできない過去の世界の話をしているけれど、「記憶の花」とうたわれるその3番こそに、先生にしかできない表現がなされていると思います。過去を想像し、心の中で見てみることで、今ある現実のこの栄口地区のことをもっとよく知り魅力的に感じることができるようになる(なってほしい)という先生の気持ちがその部分には表れていて、その3番があるからこそ1〜2番の情景も活きてくる、という風に。
つまり、栄口音頭には「想像から現実へ向かう意義」のほうが表れている、ということが言えるのだと思います。

(つづく→)